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スカ・コリュ (Suka Kollu) とは、南アメリカ大陸のアンデス地域で、先スペイン期に、チチカカ湖沿岸の湿地帯などで利用されていた耕作技術である。畝を盛り上げて、その周囲に水の張った堀をめぐらせた形態を持つ。規模はさまざまで、大きいものでは長さが200m近く、幅が数mに達するものもあった。アイマラ語でスカ・コリュ、ケチュア語ではワル・ワル、スペイン語ではカメリョーネス、英語ではレイズドフィールドと呼ばれる。 ==概説== アイマラ語で、''Suka'' とは盛り上げた畝をさし、''Kollu'' も丘などの意味を持つ。また、1612年に刊行された植民地期初期のアイマラ語辞典 (Bertonio 2004 (1612)) に、 Suka とは「畑の畝」を、同時に Uma と言う言葉が「畝の間の凹み」を意味するとして採録されている。 Qullu と言う言葉は「山」を意味するとされている。 Waru とは、「高い」あるいは逆の「深い」を意味するとされている。 チチカカ湖沿岸地帯の湿地帯や河川沿いにおいて、紀元前から見られる耕作方法である。似たような堀を伴う盛り土畑は、新大陸だけでも北米から南米にまで幅広く分布する。チチカカ湖北岸や南西岸、南岸地域に広がっていたものや、ボリビアのアマゾン地帯に広がっていたリャノス・デ・モホスは、特に有名である。チチカカ湖沿岸のものは、プカラ社会やティワナク社会において、利用されていたとされている。 いつに始まり、いつ頃まで利用されていたかについては、論争中である。紀元前200年から紀元後200年ごろに栄えたプカラ期という説もあれば、紀元後400年ころから紀元後1200年ころのティワナク期という説もあるが、地域によっても異なることもあるため、論争中である。しかし、近年の調査で、ペルーでもボリビアでも、形成期と呼ばれる紀元前の時代にまでその利用はさかのぼることはほぼ確実となってきている。 一方、利用の放棄時期に関しても、論争が行われている。一説ではスペイン人の侵入まで、別の説では、ティワナク社会が崩壊するまで、さらには、インカによるチチカカ湖地方の平定まで、と諸説ある。スペイン人の記録文書にはこの盛り畑耕法について触れられていないが、唯一、太陽の島で利用されていたとおもわせる記述が見つかっているという。また、上記のようにSuka Kolluに関連する単語が当時採録されたアイマラ語辞典に散見される。しかし、少なくとも、スペイン人によるこの地域の征服以降、近年にいたるまで全く利用されていなかった。 この盛り畑で何が栽培されていたのかについては、考古学的データからは示されていないが、人類学的調査からみて、おそらく塊茎を利用するいも類(特にジャガイモ)が主要作物であっただろうと推測されている。 ちなみに、先スペイン期においては、ジャガイモの他にノウゼンハレン科のマシュア(イサーニョ、''Tropaeolum tuberosum)'')、カタバミ科のオカ(''Oxalis tuberosa'')など多様なイモ類が栽培化されていたが、アルティプラーノのような高地では、現在、ジャガイモが圧倒的に栽培されている。その理由は、寒さに強いこと、また、単位面積あたりの収穫高が高いことなどによるという。このほか、原産作物のアカザ科植物のキヌアや、旧大陸からもたらされたソラマメなども現在では栽培されている。 これらは、かならず輪作され、おおよそ3~4年を一サイクルとして、その後、長期の休閑に入る。休閑期間は、時代や場所によって様々である。その理由は、土壌の地力回復ではなく、むしろ、植物病害を引き起こす寄生虫(シストセンチュウなどの線虫類)を避けるためであることが最近になって確認されている。 また、マシュアはその根から線虫が嫌う分泌物を出すことが知られており、ペルーの山間部などジャガイモとマシュアを同じ時期に栽培する地域では、線虫駆除のためこれらを混植することがある。アルティプラーノでは、地域にもよるが混植をせず、時期をずらしてこれらを栽培したり、わざわざ分けて栽培されるところが見られる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「スカ・コリュ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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